もう30余年も前、アメリカの母校に夏季留学した時の事である。キャフェテリアで昼食をとっていると、同じテーブルにいた中年女性が言った。”I stopped
being nice.”「ええ!そんなこと出来るの?」と思った。
自分の人生を歩き進めて行く時、いろいろな場面で、自分は本音と建前の間を行き来しながら自分の道を進めて行く。自分という人間が聖人ならば、本音を通していけばよい。しかし、みんながみんなそうで
あるとは限らない。だから、ちょっと周りを見て、建前を通すこともある。
建前とはなんだろう?いわゆる、社会常識とか、自分の育った家庭での両親の教え、学校での教育、また読んだ本や出会った人から学んだ、「こうあるべき」がそれであろう。人は、この建前と本音の間で揺れ動く。
昨年古希を迎えた今、「本音で生きても、建前で生きてもどちらでもよい」と私は思う。ただ、自分という人間をよく見て、心がしんどくないように生きていればよいと思う。自分の生き方が、他人のより良いとか悪いとか思う必要はない。比べるのなら、昨日の自分と今日の自分を比べればよい。少しでも良くなったか?
だから、他人との共存の社会の中でも、自分という人間をしっかりと見つめ、「なりたい自分」になれるようにしっかりと自分を磨く。as much as
possible ではなく、 as much as I canでいいと思う。
「あなたは、あなたのままでいい」「有りのまま」の許容範囲は、とても広い。本音と建前の占める割合はどうなるか。その範囲を設定するのはあなた自身だ。が、どのように設定しても、きっと神様はほめてくださる。
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