「置かれたところで咲く」私が好きな言葉の一つです。思いがけず、岡山という地に置かれ、その翌年、学長という立場に置かれた私に、一人のベルギー人神父がくださった英語の詩の冒頭にあった言葉でした。
「『咲く』ということは諦めることではありません。笑顔で、“神が自分をここに植えられたのは間違いでなかった”と示すことです。自分も幸せに生き、他人も幸せにするということなのです」と、詩は続いていました。
やがて私は、これこそが私たちの創立者、ジュリー・ビリアートの生き方そのものであったことに気づいたのです。マザーは、いつも、置かれた状況、場所で“咲いた”方でした。多くの困難、病気、迫害、教会の長上からの誤解、中傷、シスター達の裏切りの連続の中で、マザーは「ほほえみの聖人」でした。母国フランスを追われて、ベルギーに置かれても、そこで“咲いた”人でした。マザーの口にはいつも「神さまは善い方」という賛美があったのです。
私たちもマザーに倣い、どこに置かれても、環境の奴隷でなく、主人として咲いていましょう。それこそ清心スピリットであり、「未来に紡ぐ絆」となるのではないでしょうか。
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