つながっていたい
 いつの日も!
シスター 雜賀 美枝

 同窓生の皆様、炎暑の中、お元気にお過ごしでしょうか。
 今年も同窓会役員の方々が会報や総会の準備をはじめる頃になりました。
 会報のテーマは「― つながり ―」ということでご連絡をいただきました。この「つながり」と言うことばを目にしたとき、反射的に私の心に浮かんだのは、ヨハネ福音書十五章の「イエスはまことのぶどうの木」の個所です。その中で「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができない。・・・」とあります。
 神様とわたしとのつながりは、人間にとって大切なことです。つながりがなくなったとき、私たち人間は枯れてしまい、実を結ぶことはできません。いくら人の目には成功していると見えても、神様から見ればおろかなことであるでしょう。いつもこのことを忘れないようにしたいものです。
 翻って、現代日本社会に眼を向けてみますと、毎日のように暗い ニュースが報じられます。大切ないのちを勝手に切り捨てることが許されるのでしょうか。神様とまた家族とつながっているいのちを。
 自分のいのちもそうですが、他者のいのちを切り取る権利が人間にあるのでしょうか。絶対にありえません。先のヨハネ福音書は、 イエス・キリストのことばとして「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と記しています。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と続きます。
 現代人はあたかも自分ひとりで生きているかのような錯覚をもっていますが、人間は決して一人では生きていかれないのは言うに及びません。
 日本では、血縁、地縁と言うように「縁」を大切にしていました。 同窓生は、清心女子短期大学に学んだと言う「縁」につながっているのです。師弟の「縁」、友人の「縁」同窓の「縁」。このつながりがあるからこそ、年代の差を乗り越えて、旧知のように親しみを感じることができるのです。同窓生という「縁」を自覚しながら、このつながりを大切にしていきましょう。
自分から、絶縁しないように。
最後に聖歌の一節を・・・
 キリストはぶどうの木
 わたしはその枝の一つ
 慈しみの雨に洗われ
 つながっていたいいつまでも 

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