戦後78年、平和への想い


広島市立大学元学長 ND清心女子短大英文学非常勤講師 藤本 黎時
 

  福山市は、1945(昭和20)年8月8日深夜、米空軍の焼夷弾攻撃によって市中が火の海と化し、住宅地、民間施設とともに国宝福山城天守閣も焼失し、数百名の市民が犠牲となりました。今年の1月15日から3月26日まで、「福山市人権平和資料館」では、「戦時体制のなかの学徒動員」というテーマで、学徒動員に関する資料とともに戦災に関する資料の展示も行われました。2月26日、私は学徒動員を体験した者として講演に招かれ、当時の体験を語りました。
 1941年12月8日から始まった太平洋戦争が激化し、多数の成年男子が戦場に召集されたため、1943年、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されて、中学生や女学生たちが軍需産業の現場で働かされるようになりました。
 1945年1月、中学1年生の3学期に、学徒勤労総動員令が発令されて学校が閉鎖され、1年生全員が呉海軍工廠に派遣されることになりました。私たちのクラスは、水雷部第1機械工場に旋盤工見習いとして派遣され、毎日、朝8時から夕方の5時まで旋盤を使って魚形水雷の部品製作の作業に従事しました。2年生になると3交代制のシフトが始まり、朝の8時から夕方の5時までの日勤と、5時から夜中の12時過ぎまでの準夜勤が1週間ごとに交互に繰り返される 勤務となりました。準夜勤の時は、12時に仕事が終了すると支給された夜食をとり、工場の背後の丘に建つ「忠誠寮」へ帰り、深夜の2~3時頃就寝する生活でした。
 私にとって忘れられないのは、6月22日の呉海軍工廠への空爆です。私たちのクラスは準夜勤明けで就寝してまだ寝床にいるとき、断続的に鳴らされる空襲警報のサイレンで起こされて、寮の裏山(低い丘)に掘られた横穴式防空壕へと避難しました。米空軍のB29爆撃機が投下する爆弾の炸裂する音を聞きながら、生きた心地がしませんでした。やがて空爆が収まって横穴式の防空壕から外へ出ると、目の前の「忠誠寮」が直撃弾を受けて炎上していました。
 その日の空爆によって、多くの従業員たちとともに、学徒動員の中学生と女学生たちの生命も失われました。爆撃で焼失した「忠誠寮」の焼け跡は、波型トタンに遺体が並べられて臨時の火葬場となりました。波型トタンの上の同級生の遺体に取りすがって泣いていた女学生の姿など、今なお忘れ難く辛く悲しい思い出です。
 私たちの世代(私は1932年生れ)は、物心がついた頃から中国 や英米との無謀な戦争が続き、1945年の敗戦の時まで厳しい戦時下の生活を強いられました。当時の日本は、深刻な労働力不足を補うためとはいえ、学徒勤労総動員令を発令して、肉体的にも精神的にも成人になっていない子供たちを強制労働に駆り出し戦争を継続しました。
 第2次世界大戦終結後、78年間、私たちが夢想する平和な世界は遠い存在です。プーチン大統領の特別軍事作戦と称するウクライナ侵攻が始まりました。連日、ロシア軍のミサイル攻撃によって民間施設や医療施設までも攻撃の対象になり、私たちは、ウクライナの古都の美しい町並みや歴史的建造物が破壊され、兵士だけでなく多くの市民の生命が奪われていることに心を痛めています。

 
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